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フォントノワの戦い(英:Battle of Fontenoy)は、1745年5月11日に行われたオーストリア継承戦争における会戦である。フランス軍と、イギリス、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、オーストリアの連合軍が戦い、フランス軍が勝利した。フォントノアの戦い、フォントネーの戦いの表記も見られる。この戦いは当時の戦争における雰囲気をよく伝えるエピソードで知られ、歴史の中でしばしば引き合いに出される。 == 背景 == 1745年、オーストリアの継承問題から始まったこの戦争は既にその性格を変え、各国の勢力争いに転化していた。フランスはバイエルン支援の困難さとプロイセンへの不信感からドイツ方面での戦役に見切りをつけ始めていたが、1月に神聖ローマ皇帝カール7世が死去し、4月にバイエルンがフュッセン条約でオーストリアと単独講和するに至るとこの方面への関心を完全に失った。そしてイタリア方面と南ネーデルラント方面に注力する姿勢を示した。 フランスは主戦力をネーデルラントに指向し、前年にオーストリア軍のアルザス侵入で頓挫した大規模な攻勢を再度企画した。指揮官にはモーリス・ド・サックスが起用され、軍長老であるアドリアン・モーリス・ド・ノアイユは自ら補佐にまわった〔Voltaire, 1774 (2005), p.141。『ルイ15世の世紀』にはノアイユの嫉妬弱からずとあるが、サックスの抜擢はそもそもノアイユの推挙によるところが大きい。グーチ(1994), p.290。〕。更にフランス国王ルイ15世はまだ十代の王太子ルイ同伴で親征の姿勢を示した。フランスの方針は、スヘルデ川を下ってネーデルラントを中央から東西に分断しつつ、西半部の諸都市を攻略占領するというものだった。既に前年の戦役でメニン、イープル、フールネは占領されており、サックスは今年の戦役で一挙にフランドル全域の攻略を図った。 一方、ネーデルラントを守るのは、国事軍を号するイギリス、ハノーファー合同軍と、オランダ軍およびオーストリアのネーデルラント守備隊による連合軍で、このうちオーストリア軍は数が少なく、オーストリア領を戦場とするものの主力となるのはイギリス軍だった。オーストリアが戦力を対プロイセン戦に投じてネーデルラントを顧みない一方で、ネーデルラントへのフランスの侵食はイギリスが一番嫌うところであったから、この方面の戦役はイギリスが主導した。総指揮は先のデッティンゲンの戦いで活躍したカンバーランド公ウィリアム・オーガスタスが執り、まだ若いカンバーランドをリゴニアー伯が補佐した。フランス軍の集結が始まったとの報告を得ると各々分散して冬営していた連合軍もブリュッセルに集結、フランス軍の出方を窺った。 サックスの目的はスヘルデ川沿いの要塞都市トゥルネーの攻略だったが、これを成功させるためにまず陽動を行うことから今年の戦役を始めた。4月、フランス軍はスヘルデ川上流ヴァランシエンヌに集結したが、ヴァランシエンヌの東でモンスの南にあるモブージュにも軍を集結させた。このため連合軍はフランス軍の目的はモンス攻略ではないかと警戒していたところ、モブージュよりモンスを目指してデストレ公の軍が北上を開始、連合軍はモンスこそフランス軍の目標と考えて同地に向け進軍を始めた。 しかしこれはサックスの陽動であって、モンスへの欺瞞的な進軍が行われている間に主力部隊はヴァランシエンヌからスヘルデ川の両岸を下ってトゥルネーに接近、4月25日、フランス軍はトゥルネーに到着して包囲を開始し、トゥルネーを守備していたオランダ軍は準備不足のまま包囲戦に突入した。一方デストレ軍は陽動の役目を果たすとすぐ引き下がって本隊に合流した。30日、包囲が完成してトゥルネー攻撃が開始されるが、サックスは包囲戦の指揮をレーヴェンダールに任せ、自身は包囲軍を援護し、連合軍を迎え撃つための陣地の選定に取り掛かった。 陽動の成功によってサックスには戦場を選び、準備して敵を待ち構える十分な余裕があり、検討の末にトゥルネー南東にあるスヘルデ河畔の町アントアンとその東にあるフォントノワの周辺を決戦場と定めた。5月8日にルイ15世と王太子を軍に迎え、サックスは部隊をフォントノワに集結させて野戦築城を開始した。トゥルネーの攻城はブレゼが指揮を執って継続し、スヘルデ川に渡した橋の守りにも一定数の部隊が置かれた。 対する連合軍は陽動のために反応が遅れ、トゥルネー包囲を妨害できなかった。カンバーランドはモンス途上のソワニェでトゥルネー攻撃を知り一旦停止したが、トゥルネーの陥落を座視することはできず、西に転進してその救出を目指した。かくして連合軍はトゥルネーへの道上で待ち構えるフランス軍の陣地に断固攻撃をかけなければならなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フォントノワの戦い (1745年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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